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役に立つことを書きたいです

雑記 vol.1

今日は水道橋駅至近の場末の中華料理屋で、研究会の終わりに、独りで夕食を食べていたのだけど、そのお店に客として来ていた若者2人の会話が印象的だった。

 

耳を傾ける限り、彼らは中学校の同級生で、ひとりは卒業後すぐに働き始め、もうひとりは全日制の高校に通っていて今は働いているっぽかった。

 

彼らの話の内容は、中学校時代の友達がどうしているか、それぞれの兄弟姉妹がどうしているかというもので、ひとりが退店間際に発した「また昔の面子で集まりたいな」ということばが特に印象的だった。

 

もちろん私自身も、中学校・高校時代の友達と会った時は「あの時の面子、最高だったよな」みたいなことを言ったりするので、そのことば自体は常套句なのかもしれないけど、それを発する側は、やっぱり感情が出てしまうもの。

 

そして本題、彼らの会話のどこが印象的だったのかということなのだけれども、彼らのうちのどちらかの姉が「四大を、奨学金を借りることなく卒業して就職したのに、実家に金を入れない」ということでクズ扱いされていたということ、そして中学卒業後すぐに働き始めた方は、まだ若いながらも(自動車免許についての話もしていたので20歳前後だろうか)給料を妹のお小遣いとして渡していると話していたということの2点。

 

私の家は父もその年齢の平均年収ほどは貰っていなくて、母も身体が弱くて働けていない、という事情もあって、大学院まで行かせてもらっていることを申し訳なく思っているから、ほかの院生よりは切り詰めて生活しているつもりではあるのだけど、奨学金は借りていないし、正直、実家にお金を入れることの意味もわからない(どうせ相続されるのではと思うし、親世代に一定以上の貯蓄があれば生前贈与していた方が相続税的にも得なのだから、実家暮らしで家計を分離させる必要がない以上は、そこで親に金を還元することは、長期的に見るとむしろ損しているよね)から、それがクズ扱いされるということは合理的だとは到底思えないのだけど、親が家計の面で苦労している姿を見たりしていると、家族の一員で、かつ働いているものが実家にお金を入れるということは当然のように思われるということも理解はできる。

 

ただ、理解はできるものの共感はできなくて、私にこれが共感できないのは、私のこれまでの人間関係が狭かったからなのかなと。私よりおそらく若い年齢で、自身の兄弟姉妹にお小遣いをあげているというのも、なかなか自身の身の回りだと考えられないことだし。

 

社会学を専門として学んでいるものとして、そして、その前にひとりの人間として、私自身、象牙の塔に籠ってしまうようなことは避けたいと思ってはいるから、なんかこうもっと、いろいろな人の話を、特に自分とこれまで接点がなかった人の話を、そこから彼ら/彼女らの考え方を、聞いて理解を広げていきたい。もちろん、そう簡単ではないこともわかっているのだけど。私自身も、生きていく方法を見つけなければならないし。ただ、単に生きることだけではなくて「善く生きる」ことも重要だな、と。この気持ちは忘れたくない。

G・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』1節目

人文・社会学系、特にカルチュラル・スタディーズポストコロニアル理論について学んでいる学生なら一度は聞いたことがあるかもしれないスピヴァクの著作。

 

多くの理論書で引用されていることや、本自体が薄いこともあって、わかりやすい本だという先入見を持っている人もいるかもしれません(私です)が、実際はめちゃくちゃ難しいです。大学院の講義で、その本の1, 2節の部分(サティの寡婦の話は出てきません)のレジュメ担当になって、著作の内容をまとめる機会を得たので、ついでにここで共有するという次第です。

 

 

1.

 

西洋から生じてきているもっともラディカルな批評としてこの本で位置付けられるフーコードゥルーズらの議論は、複数形(-s)で表示された「主体効果subject-effects」の理論であり、これは一見すると主体の主権制を掘り崩そうとするものであるかのような幻想を与えますが、逆に、知の主体を隠蔽するための覆いを提供するものになっていて、西洋という主体を保持してしまっています。

 

※主体効果subject-effectってなんだろう?と思って調べてみると、gobbledygook(それっぽいことば)くらいに捉えられていたので、そこよりも彼らの議論(たとえばフーコーの場合だと、狂気が病のひとつと捉えられていることを、歴史を通して相対化すること)が、彼らがどのような位置に立って発しているかという目線を見落としているために、その位置(知の主体)を隠蔽するものになっているということが重要かなと思います。

 

スピヴァクは、フーコードゥルーズの対談を批判の対象として大きく取り上げますが、ここから西洋の現代思想(ポスト構造主義)内に潜むイデオロギーの痕跡を垣間見ることができるからだと述べます。彼らの主張は簡潔に述べると、

 

①権力/欲望/利害のネットワークが異種混淆的であり、ひとつの首尾一貫した語りには還元できないということ

②知識人は社会における他者が発する言説を明るみに出し、それを知るように努めるべき

 

の2点になります。ところが、イデオロギーの問題や、知的/経済的な生産活動をこれまで西洋が担ってきたという歴史のなかに彼ら思想家自身が巻き込まれていることを無視している、とスピヴァクは指摘しています。

 

この例として挙げられるのが、「毛沢東主義」という固有名の無邪気な流用で、これは「アジア」というものを透明で、具体的な中味を消し去られた存在にしてしまいかねません。「毛沢東主義」はそもそも中国のお話なので、ほかのアジア諸国のことは捨象されていますし、さらに中国内も一枚岩的なものではありません。

 

また、「労働者たちの闘争への言及」のなかで抽象的かつ一般的な言い回しが用いられ、労働の国際的分業やグローバルな資本主義のような「現実のありよう」が取り扱われていないこともスピヴァクは問題視しています。

 

スピヴァクは「異種混淆性と他者についてのわたしたちの最良の預言者であるそれらの知識人において、このような閉塞がゆるされてよいわけがどうしてあろうか」(p.6)と怒りをぶつけています。スピヴァクは「知識人」であることに対して、非常に強い責任感を持っていることがわかります。

 

また、労働者-闘争の結びつきはどんな権力であっても爆破したいという欲望のもとに位置付けられている、とスピヴァクは主張し、欲望についてのドゥルーズ=ガタリの新しい定義づけのもとにこのテーゼを見ていきます。

 

ドゥルーズ=ガタリによると、欲望は、対象を書いているのではなくて固定した主体を欠いていて、この固定した主体は抑圧のもとに生じる、とのことですが、スピヴァク曰く、ここで生じる主体は、それが労働者か経営者かを問わないものの、「法的に正当な手続きにアクセスできるものと想定されている」ものであり、その主体は、他者としての、欲望する主体ではない、ということを指摘しています。

 

※ここはちょっと意味不明なので、欲望とはそもそも何かという観点でラカン精神分析をちょっと追ったのですが、ラカン精神分析においては、欲望desireは、要請demandにおける(生理的)欲求need(ex)「お腹すいた」に対する充足手段(ex)「お菓子ほしい」を超えた愛や承認を求めること(ex)「私を大切にして」というメッセージを指すものだそうです。しかし、ここでは参考にならないですね…。

 

スピヴァクは、このドゥルーズ=ガタリの欲望/権力/主体性の相互関係の考察を失敗と捉え、イデオロギーについての無関心があると述べていますが、それは思想史あるあるの失敗のようでした。たとえばフーコーは、アルチュセールが図式化しようとする制度的異種混淆性を無視してはいませんが、物質的生産の場を「知」(エピステーメー?)に認めようとするのと同じくらいの重さを、その制度的異種混淆性には与えていないのですね。彼ら西洋の思想家は制度(≒ここではイデオロギー)という概念を図式的にすぎないものとして拒絶しており、そこに「無意識」や「文化」という概念を用いてしまっているそうです。スピヴァクは「利害はつねに欲望のあとにやってくる」(p.10)というモデルを彼らはもっていると述べます。差異化をほどこされていない欲望こそが行為の作因者であり、そこに権力が欲望の諸効果を生みだすために滑り込み、結果としてだれと名指されることのない主体(おそらく差異化前の欲望)の誕生があることを指摘しています。

 

欲望→差異化をもたらす、媒介としての権力→行為 という図式であり、

ここでは「欲望する主体」が空白になってしまうのですね。

 

そのため、「行為の作因者の空なる場所を歴史上の理論の太陽たるヨーロッパという主体でもって埋める」(p.11)ということが現に、意識的にかどうかはともかく、行われているということをスピヴァクは主張しています。

 

上述のように、労働の国際的分業のような現状について、フーコーらは見落としをしているからこそ、欲望をドゥルーズ=ガタリの定義(前述した「固定した主体を欠いたもの」)とすると、その主体の空白に、西洋の権力が入り込むからこそ、彼らの議論は現状の追認にしかならない、とスピヴァクは主張しているのではないか、と私は解釈しました。

 

これが実際にドゥルーズのなかで、どのような記述で現れているかというと、「囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である具体的経験が明るみに出されるのは、あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験を通じて」(p.12)という記述や、理論とは道具箱のようなものでシニフィアンとは何も関係ないという旨の記述の形で、であり、

 

前者については、たとえば囚人について語ろうと思っても、実際に囚人が語るわけではなく、囚人の話を聞いた知識人が語るという構図になってしまうことを批判しているのであり、後者については、理論的世界が「実践的」と定義される世界へ接近していく場合には言語の使用が不可欠なことを考えると(すなわち、前者の話を少し抽象化すると)結局ドゥルーズの議論は、ドゥルーズのような立場の思想家にとってのみ役立つような言明にすぎなくなっているのですね。

 

※p.13~p.15は意味不明なので割愛

 

それから、マルクスの議論が出てきます。マルクスは階級についての記述定義は示差的なものだと述べています。つまり「ある階級についての知恵技は他のすべての階級からの切離と差異によってあたえられる」(p.16)というものです。だからこそ、階級的本能というものが存在しているわけではなく、階級の形成は人為的かつ経済的なもの(社会学風にいうと、「社会的に構築されたもの」)と考えることができます。とすると、マルクスは、「(アプリオリに存在するとみなされている)欲望と利害が一致するようなひとつの未分割の主体をつくり出そうとしているのではない」(p.16-17)ということがわかり、この時点で、最初に述べたフーコードゥルーズの欲望/利害のネットワークという考え方が、マルクスの思想とは袂を分かっているものだということが見えてきます。

 

この(マルクスが主張する)欲望と利害の不一致の例としては、欲望(階級的意識)と(階級的)利害が一致しない分割地農民の例を引くことができます。分割地農民は、自らを代表することができないため、かれらの権利を守るための執行権力がかれらの代表者とならざるを得ません。ここは誤読があるかもしれませんが、階級的意識のもとで「こうありたい」と欲望する分割地農民の、利害を一手に引き受ける執行権力は、本来的に執行権力それ自体の欲望・利害にもとづいて動くものであるために、分割地農民を執行権力が代表することによって、利害を追い求める際のズレが生じてきます。これをもって、欲望/利害のネットワークという考え方に無理が生じてくるのではないか、とスピヴァクは指摘しているのではないかと私は解釈しています。

 

※p.19~p.25はほぼ意味不明なので割愛

 

※理解では十全ではないし、ここは本筋と逸れた議論になっている気もしますが、p.20〜22までを強いてまとめるとすると、マルクスは階級的立場→階級的意識→階級的行為という図式を持っていて、この階級的意識は、全国的的結合や政治的組織に属する共同感情を意味していて、家族をモデルとするような他の共同感情を捨象しています。マルクスにとって、家族は「社会との交通」(※交易を指す)と対比して考えられるものであり、このような、家族の階級的形成体からの排除には男性中心主義が見受けられます。スピヴァクは十全な階級的行為があるとすれば、それは「『かれらの生活様式を切り離す経済的生存状態』をはじめとした『人為的な』なにものかを領有(代補)することであるとともに、ひとつの異議申し立て的な置き換えを行うこと」(p.21)と述べています。しかし、たとえば前述した、マルクスが軽視していた家族、その役割も異種混淆的になっており、「たんに家族の位置の置き換えを行うだけでは、枠組み自体を破ることにはならない」(p.22)ということをスピヴァクは指摘しています。

 

さて、改めてフーコードゥルーズの対談で述べられていた主張において問題含みなものを挙げるとすると、A.「理論とは実践の中継者である(こうして理論的実践にまつわる諸問題が葬り去られる)」B.「被抑圧者は自分で知り語ることができる」というものも出てくるのですが、これは初めに述べた①②をより具体的(とはいっても抽象度は高いですよね…)にした?ものです。

 

このABは構成的な2つの主体を再導入するという点で問題を抱えています。

それぞれ、

α:方法論的前提としての欲望と権力という(大文字の)主体

β:被抑圧者という自己同一的ではないにしても自己近似的な(小文字の)主体

ですが、この2つの主体の再導入のなかで、いずれの意味でも主体となりえない知識人たちは透明な存在と化してしまいます。

 

スピヴァクはここで再導入された主体について批判を行なっています。「(知識人の)透明性のなかにいっしょに縫いこまれてしまっている(2つの)主体は、労働の国際的分業の搾取者の側に属している」(p.28)「フランスの知識人たちはみずから危険を承知の上なのであろうか、この重層決定された企ての全体が、利害、動機(欲望)、そして(知の)権力が無情にも脱臼を起こすことをもとめるような、あるひとつの動態的な経済的状況の利害関心下にあって遂行されたものであったということを忘れている」(p.29)という形です。

 

※「方法論的前提としての欲望と権力という主体」は、「議論を展開させるに際しての主体」という意味でしょう。「自己同一的では…」についてはわかりません。

 

※搾取者の側に属している、というのは言い過ぎな感覚もありますが、繰り返し述べているように、西洋的なエピステーメーに則っているというニュアンスでしょう。

 

さて、そのなかでスピヴァクが、知識人にとっての政治的実践のひとつのありうる方策として提示しているものは、経済的なものを「抹消のもとに」置いてみること、です。この著作が難解だったので、この本の解説もいろいろdigったのですが、スピヴァクが「位置取り」として特に主張したい部分のようです(本当にそうかどうか、については議論の余地があると思います)。ただ、経済的なものを「抹消のもとに」奥ことによって、経済的要因というものが、どんなに還元不可能なものであって、そして、それが抹消されるときにも、社会的テクストを(経済的なものが抹消されることによって?)書き込み直すことになるのを私たちがみることができる、とスピヴァクは主張して、この1節が終わります。

 

 

 

2節目もこの記事で書こうと思ったのですが、

あまりにも長くなりすぎることと疲れたこととで、

今日の記事はこれまでにしておきます。

2節目についてはまた後日に記事にするつもりです。

 

記事を書いたにも関わらず、解説できない部分があって申し訳ないのですが、

自身の思考の整理と、院生がどのように本を読んでいるのか、という部分を共有することそれ自体にも意義があるのかな、と思います。

 

参考文献

Spivak, Gayatri  C., 1988,  "Can the Subaltern Speak?", Cary Nelson and Lawrenve Grosberg eds., Marxism and the interpretation of Culture, Urbana: University of Illinois Press: 271-313. (=1998, 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』みすず書房.)

 

https://www.amazon.co.jp/サバルタンは語ることができるか-みすずライブラリー-G-C-スピヴァク/dp/4622050315

映画『ここは退屈迎えに来て』を見ました


10/19公開 映画『ここは退屈迎えに来て』予告

 

これです

Twitterで誰か経由で流れて来て、この公式アカウントが流れて来て、富山でロケのほとんどを行なっていて、地方のロードサイドの感じが云々みたいにあったので、

 

地方出身者、かつ、ロードサイド・チェーン系ショップ大好きな私としては時間あったら見るぞーと思っていました。

 

ロードサイドは「地方特有の車社会がー」みたいな言説で語られがちな印象があるのですが(というかロードサイドということばからしてそうだよね)、実際、自転車のアクセスもかなり良いんですよね。東京都市圏だと自転車で結構不便なことが多くて。それもあって、車に乗らない(乗りたくない・怖い)、自転車好きな私にとってはロードサイドはポイント高いんです。

 

あとチェーン系ショップ(たとえばドトールとかですね)大好きなのは、すべての商品やらオペレーションやらが画一化されて裏切られない感じ、そこから出る安心感はなににも代え難いと思っているからです。純喫茶とか、京都にいた頃だとソワレとかも行きましたけど、観光地化されていて、人が多くて、逆にあまり落ち着けない。そもそも、そういうお店はおしゃれな人が多くて身構えてしまう。だからこそチェーン系ショップが好きなんですね。自然体で入れる。

 

ちなみに本当は研究会が近くてレジュメ切らなきゃいけないので本郷の総図にゼミの後立ち寄っていろいろ作業するつもりで、つまり時間なかったはずだったのですが、なんか別館しか空いていなかったのでしゃーなし映画でも見るかという形でバルト9で見て来ました(ちゃんとレジュメはなんとか自分基準では切れたと思っています)。

 

話が逸れまくりました。

 

この映画についてです。

ネタバレ含むので、ネタバレ嫌な人は以下は見ることおすすめしません

 

まずストーリーとしては、東京でライター目指してた「私」(橋本愛)が地元に帰って来て、久しぶりに友達に会って、そこで当時好きだったクラスの超人気イケメン男子椎名くん(成田凌)に会う約束をノリで取り付けて、その約束の時間までに、彼女らの高校時代の回想シーンを交えながら、思い出のゲーセンに行ったりするんですが、そこで新保くんという地味なキャラクター(松本大知)と会って、イケメン男子椎名くんの落ちぶれ具合とかを聞くんですが、それでもまぁ会う約束はしてあるんで、とりあえず彼のいまの勤務先である自動車教習所に行ってみようということで、そこで会うんですが、「私」はそこで「ところで名前なんだっけ?」って椎名くんに言われて「えっ嘘でしょ…」みたいになって、フジファブリックの悲しめの劇中歌をうたって終わるみたいな感じなんですが、まぁざっとまとめると

 

「いろいろ人生は期待通りに行かないし、昔の人気者も『みんなが人気者扱いすること』によって人気者になっている場合があるから、思い出補正というか幻想だよね」みたいな感じのことを伝えようとしているっぽいです

 

とりあえず、この時点でまずツッコミどころがあって、Facebookとかでやりとりしてる設定(のはず)なのに名前をど忘れすることなんてないはずなので、「名前なんだっけ?」ってなるのもおかしいし、そもそも名前をど忘れしてたとしても、普通の人はなんとか誤魔化すはずなので、それができないくらいに椎名くんが落ちぶれていたってことを表したかったのかなーって思ったり

 

ただ、これメインストリーは「私」(橋本愛)と「椎名くん」(成田凌)なんですが、サブストーリー的なのもいろいろあって、椎名くんは、劇中でほとんど設定が紹介されない女の子と結婚しているんですよね。その点を鑑みると、そんなに椎名くんが落ちぶれているとは思えないというのもありました

 

で、さらにほかのサブストーリーとしては門脇麦が演じる「あたし」というキャラクターもいて、彼女はその椎名くんの元カノなんですが、フラれてから割と自暴自棄になって、冴えない知り合いと惰性で一夜を共にして、その間に、自分のことを惨めに感じて、ホテルを飛び出してしまうんですね。飛び出して早朝、しかも地方なんで、めっちゃエモい感じでフジファブリックの劇中歌を歌っているシーンがあって、そことかは絵になるなぁって感じなんですが、そのサブストーリーがメインのストーリーとつながらないとこが残念だなぁと

 

そして、さらにまたもうひとつサブストーリーがあって、それは片山友希演じる援交少女なんですけど、そういう自棄になってる女の子が出てくるストーリーのエモさはなんとなく共感できる部分もあってそれ自体は好きなんですが、片山友希と門脇麦が雰囲気似ていることもあって、上映中は、「あたし」こと門脇麦がフラれて、承認を求めて援交に手を出して、援交してた冴えないおじさんに対しては優越感をただ感じられるからよかったけど、そのおじさんもお見合い結婚するとかでもう援交できないってなって、それで、前段落で述べた、対等だとは思ってないのに対等ぶってくる冴えない知り合いに余計に腹が立ってホテルを飛び出してしまう的な流れなのかなと思っていたんですが、あとで全然関係なかったって知った感じです

 

映画見終わった後にレビューサイトを見ていたのですが「登場人物同士の絡みが薄い」というコメントがあって、まさにその通りだなと。そのせいで、「誰がどういう気持ちで何をしているのか」がめちゃくちゃ伝わりにくくなっているんですよね。群像劇という位置付けなのもあって仕方ないのでしょうけど、回想シーンがめちゃくちゃ多いこともあってただでさえストーリーが掴みにくいのに、門脇麦と片山友希の役柄とぱっと見が似ていることもあって私は相当混乱してしまいました

 

まぁただ全体的な映画としての評価は役者も第一線を揃えていることもあって、かつ、カメラワークも(わざと手ブレさせているところとか批判もあるようですが)結構好きな感じだったので、悪くはない、けど、もったいない要素が多いな、というのが総評になります

 

話をこの映画で監督/原作者が伝えたかったであろう「いろいろ人生は期待通りに行かないし、昔の人気者も『みんなが人気者扱いすること』によって人気者になっている場合があるから、思い出補正というか幻想だよね」というメッセージに戻しますが、実際どうなんでしょうね。主人公「私」(橋本愛)の友達は東京にめちゃくちゃ憧れがあって、かつ、「私」も東京で夢破れた設定だからこそ、「人生は期待通りに行かない」ということを伝えたいことはわかるんですが、そもそも舞台の富山も一通りのものが揃っている場所で、かつ、2013年という設定なので、東京の情報もそこそこ入ってくることを考えると、そもそも「期待」というほど主人公である「私」たちは期待をしていたのかなというのが設定上は微妙に感じられるのですが、あくまでもそれに則って考えると、「期待通りに行かない」というのは結構誰しもが感じているトピックだと思っています

 

ちょっと社会学の話も交えると、マートンっていうアメリカの社会心理学者?社会学者?がいるんですが、「アメリカに行けば夢が叶うよ」というアメリカンドリーム言説が支配的な一方で、実際に夢を掴むことができる、正攻法で成功できるチャンスはめちゃくちゃ限られてるみたいな議論を彼はしていて、だからこそ裏社会にアクセスして、そこで成り上がろうとする人が出てくるんだ的なこと述べているんですが、こういうところからも「メディアやらなんやらに煽られて期待値は上がるけど実際はうまくいかない」というのが人口に膾炙することが見えてくるなって感じです

 

昔の人気者のカリスマ性みたいなものが幻想なんじゃないかというのは、劇中の主人公の上司のセリフ「そんなやつ(椎名くん)そもそも存在しなかったんじゃないか」にもっとも現れていて、だからこそ、これを伝えたいんだろうなーというのはバシバシ感じたんですが、これについては勿論、周りが「誰々はかっこいい」とか情報を、しかも学校というクローズドなコミュニティで流すことで、そういう人気者であるペルソナ(?)ができあがっていくというのはある一方で、単に地方レベルではめちゃくちゃすごくても、大人になって、めちゃくちゃすごい人コミュニティに移ると、そのなかでは「自分って大したことないなー」って状態になっちゃうこともあるレベルでの話でもあるかなって思いました。実際に椎名くんは高校を卒業してから大阪に出て、そこで挫折して落ちぶれたっていう設定だったこともあったので、尚更そう思いましたね

 

 

東京大学大学院学際情報学府文化・人間情報学コース 院試対策 (冬季募集)

東京大学大学院学際情報学府文化・人間情報学コースへの進学を検討している人への記事です。

 

※この記事の執筆者は、一橋大学社会学研究科への入学が決まっていたところを、進学までの間に予定していた指導教員からハラスメントを受け、急遽、東京大学大学院学際情報学府を受験したため、通常の募集についてはまったく知りません。

 

東京大学大学院学際情報学府(以下、情報学環あるいは学府)文化・人間情報学コースは、認知科学、美学などを専門に学んでいる学生もいれば、カルチュラル・スタディーズを学んでいる学生もおり、まさに学際的という雰囲気の研究科です。

 

試験のプロセス

 

冬季募集では、研究成果物(卒業論文)、研究計画書、自己推薦書、推薦書、TOEIC/TOEFL/IELTSの証明書が求められ、その書類をもとに選考が行われます。それに合格すると、二次試験は面接になります。

 

推薦書は重要ではなさそう

 

自他ともに推薦書が求められることが、書類審査のうえでの独自性と言えるでしょう。推薦書は、基本的に学部の指導教員に書いてもらうことになります。これについては、最低限のものであれば問題ないありません。しかし、自己推薦書は、学問における能力のようなものについての客観的な基準が存在しないため、書くのに非常に困るでしょう。理系の学生であれば、学部の時に教授や先輩との共同研究などで業績を残している場合もあるでしょうが、文系の学生であれば研究業績を挙げている学部生は稀です。しかし、フィールドワークや統計分析などをゼミ内などで行なっている場合は、その経験をアピールすることも、能力の担保となるでしょう。また、学会によっては、発表でなくても、学部生によるポスターセッションなどを開催しているところがあります。このような場で発表をしている場合は、それを書くことができます。しかし、それでも自己推薦書は書く欄が余ることが予想されます。そこで、抱負をアピールすることも効果的かもしれません。一般的に、院試の面接では、研究への熱意をアピールすることは難しいです。そこで、研究室訪問や書類上でことばにすることが求められます。私は「学際情報学府で学べる日が来ることを楽しみにしています」と締め括りました。就職活動では、「一緒に働きたいと思わせる」ことが重要と言われています。それと同様に、自身がその研究科の院生になっている姿を自然なものとしてイメージする/させることが大切なのではないかと考えています。

 

TOEIC/TOEFL/IELTS証明書もそこまで重要ではなさそう

 

私は冒頭に記述した理由により、TOEFLとIELTSの受験が間に合わなかったので、TOEICで受験しましたが問題ありません(通常募集はTOEICでは受けられないという話を聞きました)。ボーダーラインとしては、留学生の間ではTOEFL90以上(100以上が安全圏)という話があるようですが、そこまで高くなくても問題なさそうです。TOEICで、800以上あれば英語が原因で落とされることはないように見受けられます(私のスコアは885です)。また、評価についても、足切りがあるわけではなく、総合的に行われるので、英語の民間試験の成績が悪くても、研究計画や卒業論文の質が担保されていれば合格できると考えられます。

 

研究成果物(卒業論文)

 

がんばって書きましょう!

 

研究計画書は重要そう!

 

もっとも重視される部分だと考えられます。A4*2枚という指定がありますが、その他の書類が両面印刷だったので私は計4ページ分の研究計画書を書きました。正確には2ページだけ書くべきであると思いますが、書き足りないという気持ちがある場合は4ページ書いても、それが問題になることはありません。しかし、あまり多くを書きすぎると、多忙な大学教員のにとっては読むのが億劫に感じられることもあるようなので、4ページ分書く場合は、余白や文字の大きさなどに気を使って書きましょう。

 

書き方としては、

1. 研究の概要

2. 先行研究

3. 先行研究における問題点

4. 研究の方法

5. 仮説

6. 研究の今後の展望・社会的意義

7. 参考文献

 

という順番が良いかと思います。

 

参考文献については、一橋大学の方の記事でも述べましたが、自身と関わりが深い学術誌の参考文献の書き方に準じるのが最適かと思われます。

 

情報学環は、そのOBの代表的な著作などからなんとなくわかるように、「学環らしさ」がある研究が好まれる傾向にあるように見受けられます。しかし、情報学環は受け持っている学生数が多い教授と少ない教授とで二分されているように思われ(他大学や他研究科もおそらくそうでしょうが)、また、「学環らしさ」があるメディア論、カルチュラル・スタディーズ科学技術社会論ポストコロニアル理論を専門としている著名な教授が多くの学生を抱えています。そのため、必ずしも「学環らしさ」がある研究が院試において好まれているというわけではなく、その分野が単純に人気であると判断するべきかもしれません。

 

とはいえ、研究分野・研究テーマの選定は大切です。「らしさ」に拘らずとも(拘っている人なんていないかもしれませんが)、社会を俯瞰的に見渡したうえで、どのような問題が前景化しているか、そのような問題のなかで議論が満足になされていないものがあるか、などの観点からリサーチクエスチョンを探していくと、新奇性のある問いに出会うことができるかもしれません。私自身の話をすると、私の入試の合否は研究テーマそれ自体で決まったと考えています。私のテーマは雑駁に言って、「空港と人びと」というもので、モビリティという分野からこの議論を追っていくというものですが、モビリティはグローバル化して人びとの移動が増えるなかでも、日本国内ではあまり議論がされることがない分野でした。そして、空港も、研究者はフィールドワークや学会発表などで飛行機に乗る機会があるため、よく使う場所ですが、空港についての議論で著名なものはありません。しかし、空港という場がなんとなく人をわくわくさせる、ということは結構な割合で人が共感するものです。そのため、掴みとして良かったのかなと考えています。もっとも、私自身がそのような考えでこのテーマに至ったわけではなく、私は最初は観光社会学を研究したいと考えていて、イギリスの社会学者ジョン・アーリの『観光のまなざし』や『モビリティーズ』を読んでいたところ、アーリの著作のなかで、フランスの人類学者マルク・オジェの『非場所』が引用されており、それに非常に興味を惹かれ、そのオジェの著作のなかで空港が「非-場所」(人びとが重要視しない場)として取り上げられていて、純粋にその議論に興味を持ったという形でこのテーマに至ったのですが(そのため、卒論と修論はテーマが異なります)。ただ、結果論として、テーマが新奇で、それでいて馴染みがあるものということが評価に影響するひとつの要素として働いたと考えています。

 

また、細かい部分ですが、前述の通り、国内ではこのテーマについてあまり議論がなされていなかったために、参考文献のほとんどが英語のものになりました。そこも、参考文献がすべて日本語であるよりは評価されたポイントだったのかもしれません。ただ、京都大学大学院人間環境学研究科での面接の時、私の卒業論文のなかで引用しているディーン・マキァーネルの"Staged Authenticity"(1973)という論文を指して、「外国語論文もちゃんと読んでいるね」と言われたことがあったのですが、その論文は『ザ・ツーリスト』という著作の一章分として和訳されているものだったので(私は英語で読みましたが)、必ずしも専門ではない分野の文献であれば、詳しくチェックしているわけではないと思われます。

 

面接では何が評価されるのか

 

・研究計画の質

 

情報学環の面接は、少し特殊です。15分間でプレゼンテーションを行います。一般的な学会発表と同じタイムスケジュールですね。それから質疑応答を行なう形です。プレゼンについては、詳しい指定はありませんが、自身の修士課程での研究計画についてプレゼンを行うことになります。基本的にパソコンを持ってきて、発表する人が多いのですが、私はハンドアウトにパワーポイントのファイルを印刷し、それをもとに発表を行いました。プレゼンの方法については、面接官(5人。第5希望まで出願書類に書くことができ、ほぼその時に書いた教授が担当する)の側も特に気にしている様子はありませんでした。

 

私はたった15分なのに、表紙込みで23枚のスライドに詰め込み、早口でまくしたてました。一般的なプレゼンであれば、そういうことは御法度だと思いますが、院試では合否の選別のために後日スライドを見返す可能性があり、その時に情報量が多い方が安心だと、また、早口で発表を行っても、プレゼンの技法より内容が重視される(だろう)院試ではそれがマイナスに働くことがないと考えた結果でした。

 

面接の質疑応答では、自身の研究についてしか聞かれませんでした。たとえば、「『非-場所』という概念について、空港のほかにはどのようなものがあるのか」と聞かれ、「ショッピングモールもそのように捉えられます」と答えると、「では空港とショッピングモールの相違点はなにか」と聞かれたので、「空港でも、消費によって人びとを眩惑させることも重要ですが、あくまでも空港の第一の機能は飛行機に人を誘導して、移動させることにあるので、壁が窓ガラスになっていて陽の動きがわかるようになっています。一方で、ショッピングモールでは消費が第一の機能になるので、人びとを消費にどっぷり浸らせるために外が見えないようになっています」と答えました。これはジェレミー・クールトンというイギリスの社会学者が2014年に提出した博士論文で書いていたことそのままを返したのですが、冷静に考えると、空港の壁も(特にエア・サイド=出国審査後は)窓ガラスになっていないところは多くあるし、外が見えるショッピングモールも多くあるので、少しおかしいのですが。このような修論の内容に関連した質問がほとんどで、ひとつだけ卒論と修論の接続についての質問がありました。簡単に言えば「なぜテーマを変えたのか」ということです。その他、今後の進路などについて聞かれることはまったくなかったので、あくまでも評価基準は「修士論文を書くことができそうか」という一軸だと思います。ここからも、書類審査でも、卒業論文よりも研究計画書の方が重視されるだろうことが推察できます。

 

冬季募集の難易度

 

・割と難しいと思います。

 

通常の夏季募集と冬季募集の内訳を公式で発表していないので、正確な数字はわからないのですが、聞くところによると、冬季募集は10倍くらい倍率があったとのことです(さすがにそこまで高くはないだろう、と個人的には思いましたが)。夏季募集は現在は、院試対策で読むべき本を公式に公開しているので対策が立てやすいという意味で夏季から狙っていった方がいいと思います(逆に言えば、公式に公開されている文献をほぼすべての受験生が抑えてくるために差がつかなくなるかもしれませんが)。

一橋大学大学院社会学研究科 院試対策  (主に特別選抜)

一橋大学社会学研究科総合社会科学専攻社会動態研究分野への進学を検討している人(特に一橋の学部生ではない人)への記事です。

 

※この記事の執筆者は一橋の学部出身ではなく、合格から入学までの間に予定していた指導教員からハラスメントを受け、他大学の研究科を受け直して、そちらに進学しています。ハラスメントへの対応が良くなかったので、少し悪意が見える記事になっているかもしれません。すみません!

 

社会学研究科には哲学や歴史学政治学などを学ぶコースもあるため、社会学というよりはむしろ人文・社会科学研究科という名称の方がふさわしいという意見もありますが、社会学と地理学・歴史学を区別することは難しく、また哲学や現代思想、人類学などからの影響を無視することはできません。

 

さて、一橋大学社会学研究科には3種類の入学試験があり、それぞれ特別選抜・一般募集(秋季)・一般募集(春季)です。私は特別選抜で合格したので、この記事はそれを中心に話していきます。

 

特別選抜について

 

・2017年度から実施されている。私が合格した2018年度は、5月末に結果がわかるという、他大学より早い時期に試験が行われた。2019年度は秋に実施。

・出願要件がGPA3.00以上であり、専門科目で2つ以上S, A+, Aにあたる成績をとっている必要がある。

・外国語の民間試験の成績を提出する必要がある(何点以上かは問われない。TOEICでも可)。

・ペーパーテスト(専門科目)がない。

 

特別選抜は、一次試験は提出する書類によって審査がなされ、二次試験は面接で合否が決まります。ペーパーテストがないことは、大学院で志望する分野を変えるという学生にとってはチャンスになります。しかし、その分だけ評価基準の数が少なくなるのでそれに合わせた対策が必要になります。

 

特別選抜では何が評価されるのか

 

・志望度

 

試験に際して提出する必要がある書類を見てみましょう。

1. 将来の希望(400字)

2. これまでの勉学について(1200字):卒業論文の内容

3. 修士課程での研究について(1200字):修士論文の構想

 

大学院への進学を考える人は、長い文章の読み書きに慣れていることが多いかと思いますが、そういう人にとっては、この字数は短く、「自分の考えていることが伝わるのかな…」と不安になるかもしれません。実際、私の肌感覚でも、この字数では研究の概要、新規性、これまで自分が何を学んできて、どういう意識を持っているかということがわかるとは考えにくいです。

 

そのため、この特別選抜への出願を検討している人は、研究室訪問をできるだけ早く行い、自分の名前と研究内容を覚えてもらうとより良いです。だいたい、毎年5月末に大学院入試説明会があるので、できれば学部3年次に出席し、進学を検討していることを伝えましょう。そのなかで、「ゼミの見学をすることは可能でしょうか」と伝えるとなお良いです(これを正当な理由なく断る教授のゼミを選ぶことはやめておいた方が望ましいです。地雷の可能性が高いので)。大学院のゼミはさまざまであり、20人くらいのゼミもあれば、数人で開講しているゼミもあります。また、出席者も修士課程から博士課程まで、あるいは教鞭を他大学で執っている先生が聴講している場合もあります。自分にゼミの雰囲気が合っているかを確認しましょう。もちろん、大学院入試説明会の時でなくても、自分自身で気になっているゼミの教授にメールを送って差し支えありません。研究室訪問のあとは、お礼メールを送ることも忘れないようにしましょう。

 

事前にある程度勉強していれば、研究室訪問で有利に立ち回ることができます。自分の研究内容に関連していて、かつ自分が最近読んだ本(であれば内容を覚えていると思うので)の内容を熱っぽく語り、「社会学的な視点」に共感していることを伝えましょう。しかし、その本に盲目的に共感しているのではなく、それを踏まえたうえで、少し異なる見解もありうるという旨を話すと良いです。すると、教授にとっては、「しっかり勉強もしたうえで、自分の研究内容も持っている(つまり、修士論文を書くことができる)学生」に映るような気がします(もちろん、そんな単純ではないでしょうが)。

 

これをこなしておくと、一次試験の突破率が上がると思います。さて、それでは書類の各項目ですが、「将来の希望」については、間違いなく、博士課程への進学を希望することを書いておいた方が良いです。未定でも良いですが、その場合は、博士課程へ進学したいのはやまやまだが、人文・社会科学が現在置かれている立場や経済的な問題について考えると安易に博士課程への進学を考えることはできないということや、学振DC1(修士2年次に応募することができる奨学金で、博士1年次から3年間一定額を受給することができる)を申請すること(実際には就職するつもりであっても構いません)を書くと良いかもしれません。業界についての知識・理解があるということがプラスに働く気がします。

 

次に、「これまでの勉学について」と「修士課程での研究について」ですが、これはそれぞれ卒業論文の内容と修士論文で取り組みたいことを書く欄になります。学部4年の、まだ卒論執筆に入っていない人も多い段階で修士論文の構想を書くことは難しいかもしれませんが、その場合は、卒業論文で時間的な制約上、取り組むことができないため課題として残されていることを修士課程で研究したい、あるいは卒業論文ではあるテーマについてアンケート調査と分析を行ったが、より深く知りたいので修士課程ではインタビューなど質的調査に取り組みたい、など方法論上での差異を出すと良いです(もちろん、量的調査より質的調査の方が深いと述べているわけではありません)。

 

どちらにも共通する書き方のフォーマットとしては、

1. その研究で何を明らかにする/したいのか

2. その研究をするにあたって用いる先行研究の論点

3. その先行研究の問題点(ここが自分の研究の独自性になります)

4. その問題点を改善するための調査方法

5. その調査によって明らかになった/明らかになると考えられること

という順番で書いていくと良いと思います。

 

最後に主な参考文献を書く必要があります(これを字数に入れる必要はありません)。参考文献を書く際は社会学評論スタイルガイドを参考にしましょう。社会学界のなかで、もっともオーソドックスな参考文献の書き方です。ただ、これでなくても、特定の学術誌の参考文献の書き方に準じている場合は問題ありません。もっとも危険なのは、参考文献の書き方がバラバラなことです。これがバラバラだと、一気に見栄えが悪くなります。

 

また、社会学評論スタイルガイドには書いていませんが、参考文献の並べ方は著者名のローマ字アルファベット順です。

 

de Certeau, Michel, 1980,…

Durkheim, Emile, 1897,…

大澤真幸, 2010,…

盛山和夫, 2013,…

Weber, Max, 1905,…

 

こういう順番に書きます。間違えやすいですが、「盛山」はせいやまと読みます。また、ミドルネームは先頭にきます。オランダ人に多いvonというミドルネームも、先頭になるのでvの位置に書きます。

 

面接では何が聞かれるのか

 

・卒論、修論のテーマ

・ほかのテーマにも興味があるか

・研究の社会的意義

・英語をその場で和訳する

 

面接では、まずオーソドックスに、卒業論文で取り組んでいるテーマと、修士論文で取り組みたいテーマを聞かれます(これは書類に書いた通りに答えれば良いです)。次に、ほかに興味があるテーマはあるか、ということも聞かれることがあります。この質問の意図は、「いまのテーマに興味がなくなった時にほかのテーマで論文を書くことができるか」というものなので、「どうしてもこのテーマを研究したいです」と頑なな答えをするよりは、「あれにもこれにも興味があって…」という答え方をした方が良いです(もちろん、ほかの解釈があるかもしれません)。また、研究の社会的意義も問われることがあります。特に思いつかない場合は、たとえば、「自身がテーマとする集団の語られ方に偏りがあり、ある属性を持っている人びとが一枚岩であるかのように語られているが、実際はそのなかには多様な価値観があり、それを無きもののように振る舞うのは正確ではなく、この問題提起を行わなければその集団全体をエンパワーすることはできない」といった答え方が適切だと思います。「研究に社会的意義が必要なのか」と問い返すと、少し厳しくなると思います。

 

その他、少なくとも特別選抜では、英語の短い文章(7行くらい)が印刷された紙が渡されて、少し時間を置いた後、和訳して読み上げるように言われます。単語も難しくなく、構文もシンプルです。ペンを使えるので、不安な方は時間を利用して、読み上げる時に間違えないようにSVをとったり、怪しい単語の意味を書いておけば安心です。これは難しいものではありませんが、ここで躓いてもそこまで合否に影響することはありません。「できてなかった」と言い、かつ、教授にも「できていなかったね」と言われた学生が合格していたので(ただし、希望する指導教員によると思います。出願書類で書いた、希望する指導教員の主・副2人が面接官になります)。結局は、人が見るので、その学生のことを教授がどう思っているか、がもっとも合否を左右することになると思います。積極的にアプローチをとることがもっとも大事だと思います。

 

特別選抜の難易度

 

・穴場です

 

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一橋大学社会学研究科・社会学部, 2018, 大学院入試状況, (2018年8月10日取得, 

http://www.soc.hit-u.ac.jp/admission/gs/result.html).

 

この表を見てわかる通り、倍率が低いです。2017年度入学は出願者全員が合格しており、2018年度入学は出願者14人中9人が合格しています。また、一次試験合格者11人のうち9人が合格したとありますが、そのうち1人は辞退しているので、実際の数字は10人中9人が合格です。一次試験を通ると、ほとんど受かります。そして、その一次試験の合否を決めるとされているのは、短い字数の書類と、何を受講したかや大学のレベルによって大きく変わるGPAと、外国語の民間試験(TOEICなど)の成績です。肌感覚では、TOEICは800あれば十分という感じです。修士課程を修了したのちに就職をするという学生の場合は、大学院在学中に英語論文や洋書を読んでいる人はそう多くはありません(もちろん、読んだ方がより良いとは思います)。そのため、そこまで英語力は問われていないという印象があります(TOEICで受験することができる研究科のすべてについて言える事だと思います)。もし自身の外国語の民間試験のスコアに不安があるようでしたら、研究室訪問の際に「大学院に入ると英語論文を読む必要があると思うのですが、私は英語力に自信がありません。私のTOEICのスコアは○○点で…」などと聞いてみましょう。その時に、「それだけあれば十分だよ」という反応があれば問題ないということです(もちろん、TOEICでのハイスコアに必要な英語力と英語の論文を読む際に必要な英語力は同じではありませんが)。

 

筆記試験の対策

 

・出題者を見極めよう

 

上記の特別選抜では必要ではありませんが、一般選考(秋季)では筆記試験の対策が必要になります。ちなみに一般選考(春季)では卒業論文に重きが置かれます。筆記試験は、自身が希望する分野の問題を1題、ほかの問題を1題の計2題に答えます。問題は論述式で、手書きなので、解答を書き始めるまでにどのような構成で書くのか、という点を頭の中で(あるいは問題用紙の隅に)整理しておきましょう。

 

筆記試験の問題は、大学ホームページに公開されています。

出題は、この研究科内のそれぞれの分野を専門とする教授が行なっていると推察できるので、その教授が授業でどのような研究を紹介しているか、ということを学部の学生などに聞いてみたり(多くの学生がSNSをしているはずなので)、その教授が書いた入門書などがあれば図書館で借りてみると的が当たりやすいと思います。もちろん、ある程度自分で勉強していれば、このようなことをしなくても、一次試験の突破は可能だと思います。ただ、ここで不合格になっても、東京大学大学院に合格した学生もいます。どれだけ勉強したかの問題だけではなく、その時のコンディションや、出題された問題がたまたま自分がカバーしていなかったということもあるので、気を落とさないようにしましょう。

 

筆記試験の解き方

 

(この記事を書いている私自身が、解答に自信がないので暇な人以外は飛ばしていいです)

 

試しに、問1-(1)を解いてみましょう。

社会の「個人化」とは何か。その構造的背景・過程・社会的影響を述べた上で、社会学理論にと っての意義と課題を論じなさい。

 

まず「個人化」という単語から、ジークムント・バウマンの著書『個人化社会』の存在を思い起こすと良いでしょう。実際に著書を読んでいなくても構いません。「『個人化』はポーランド社会学者・バウマンなどによって取り上げられてきたテーマである」と始めます(ここで括弧と鉤括弧を分けているのは、括弧内の単語を括るときは鉤括弧を用いるというローカルルールがあるからであり、文中でわかりやすくするために括弧を用いているだけなので、実際に解答する際は鉤括弧を普通の括弧に戻せば良いです)。出題者はおそらく、作問の際に特定の著名な社会学者のことを想起し、そこから問題を作っているので、その意図に沿うことが重要だと思います。そして、「『個人化』とは、社会の紐帯がゆるくなり、個々人が独自の価値観のもとでそれぞれの生活様式を持つようになった状態を指す」などと定義します。社会学にはデュルケームの流れを汲むもの、ウェーバーの流れを汲むものなどさまざまな考え方がありますが、基本的には「社会」(集団)が「個人」に影響を与えるという考え方をしています。そのため、解答のなかでことばを定義する際、影響を与える側である社会のはたらき(ここでは「社会の紐帯がゆるくなり」)と、影響を受ける側である個人のはたらき(ここでは「個々人が〜生活様式を持つ」)に分けて解答すると良いと思います。

 

問題にある「構造的背景」(構造)は、影響を与える側である社会と同じ意味と解釈して差し支えありません。この構造・社会のあり方は、階級的な(経済的な)ものを指すこともあれば、結婚における規則を指すこともあります。強いて言うならば、「暗黙なルール」でしょうか。この構造・社会のあり方が、個人の価値観や行動に影響を及ぼす(その結果、「社会問題」が生まれている)という考え方を「構造主義」と呼びます。しかし、社会がそのまま個人に影響を与えるというモデルを採用することは、現在ではそう多くはありません。

 

まず、「社会」にはさまざまな側面があること(政治、経済、文化など…)が指摘され、次に「社会」と「個人」の関係は双方向的であるということが指摘されます。たとえば、今回の問題である「個人化」について言えば、「インターネットの普及により、人びとが対面することなく、異なる文化を持つ人びととコミュニケーションを行うことができるようになり、これまでの家庭や近隣集団内でのコミュニケーションが希薄になった」という文化的な面での社会構造のあり方もあれば、「仕事の分業が進み、既存の人間関係に基づいた仕事の分配より、各個人が高等教育や課外活動を通して身につけた『能力』が評価されるようになった」という経済的な面での社会構造のあり方もあるでしょう。このなかのひとつの面のみを書くよりは、複数を書き、問題文にある「過程」として、一方が他方に影響を与えているというように書くといいでしょう。たとえば、この場合であれば「インターネットの普及が、採用における能力によるマッチングをより促進している」などと書くことで、「社会の文化的側面→社会の経済的側面→個人」という流れを表すことができます(分業の話はちょっと無理があったかもしれませんが、ほかに思いつきませんでした。すみません)。

 

「社会」と「個人」の関係が双方向的であることについては、問題文中の「社会学理論にとっての意義と課題」を言及する際に抑えればいいかと思います。まず、現代社会は「インターネットの普及」と「能力による分業」によって、「個人化」していると前段落までに則って書いたあとに、「個人化社会」における問題点を論じます。たとえば、これまでの家庭・近隣集団などが持っていたつながりと、そのつながりのなかにある暗黙的な文化が価値を失うことによって、「自分が持っている価値観が正しいものなのかわからなくなる=無規範状態(アノミー)」に陥ってしまうことなどが挙げられるでしょう(アノミーデュルケームの用語で、近代化に伴って起きる状態のことを指しますが、個人化社会≒現代≒ポストモダンも近代化の延長線上にある、などという留保ができればいいと思います)。それから、社会学理論にとっての課題として、「社会」と「個人」の双方向的な関係が論じられていないことに言及します。「『個人化』とは、社会の紐帯がゆるくなり、個々人が独自の価値観のもとでそれぞれの生活様式を持つようになった状態を指す」という議論では、「個人」がそれぞれまったく別々の生活様式を持って実際に生活しているかのようです。しかし、実際には、それに対するバックラッシュとしての、伝統的な価値観の先鋭化も起こっています。この動きは、「社会→個人」を受けたうえでの「個人→社会」の動きです。「人びとは、アノミーに陥って、それぞれが自身の価値観に不安を覚えるようになり、これまでの価値観により激しくすがり付くようになっり、ラディカルな思想のもとで差別を行う集団が台頭するようになった」などと書くと良いと思います(我ながら、ものすごく雑な議論で申し訳ないです)。社会学理論にとっての意義については、「インターネットの普及」について改めて言及し、「技術」という要因を入れたことを評価したうえで、近年流行している科学技術と社会の関係についての議論を引用すると良いかもしれません(技術決定論自体は結構批判されているので、必ずしも評価されるべき要因かどうかは微妙ですね…)。私自身の最近の不勉強のせいで、まともな解答ができなかった手応えがある(むしろモチベーションを上げたくて書きました)ので、参考になるかどうかは微妙なのですが(分業の話はする必要がないのに、社会における複数の側面というのを言及したいばかりに入れてしまいました)、太字にしているところは汎用性があると思います…。

 

おわりです