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ジュディス・バトラー『ジェンダートラブル』第1章

序文

 

「トラブル」が権力関係を転倒させることによって起こるものであることに注目し、どのようにして「トラブル」を起こしうるか。

 

第1章

1

 

これまでのフェミニズム=「女」というアイデンティティを表象/代表するもの。

しかし、表象/代表は、女を政治的主体として正統化しようとするプロセスでは有効だが、女というカテゴリーを規範化してしまう(「女」を新たに作り上げてしまう)。

→普遍性や統一性は主体の「空洞化」につながる。

→「女」のまえ=権力の磁場の外側は存在せず、権力のこれまでの正当かを系譜的に、批判的にたどることが必要。

 

2

 

文化的に構築されているジェンダーがセックスとは断絶しているものとするとき、そもそもセックスも所与なのか。

セックスもジェンダー化されたカテゴリー=社会的に構築されたものだとするなら、ジェンダー/セックスか?

ジェンダーはセックスに文化的に意味を書き込んだものではない。

→「ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置」(p29)

 

3

 

ひとが「ある」ジェンダーをもつといえるとすると、ジェンダーを構築している文化が、生物学のかわりに宿命的になっている。

このとき、身体は文化的意味が外側から付け加えられる道具となる。

 

イリガライ「主体も《他者》も女性的なものを排除して全体化を達成する男根ロゴス中心主義の意味機構を支えるもの」

↔︎サルトルボーヴォワール「男性が《一者》、女性が《他者》」

 

イリガライ「女の『セックス』は不在の点」

シニフィアンシニフィエの循環は男性的な意味機構

↔︎ボーヴォワール、ウィティッグ「男のセックスはしるしづけられていないが、女のセックスはしるしづけられている」

 

4

 

フェミニズムで連帯を叫ぶとき、連帯の構造の理想的な形態を示してしまうことによって、基盤主義・「統一」・「植民地主義」に陥る

 

5

 

そもそもジェンダー区分は、どの程度アイデンティティを構築しているのか。

アイデンティティが首尾一貫性なら、首尾一貫していないジェンダーのあり方を記述することで、ジェンダーアイデンティティを切り崩すことができる

ジェンダーがセックスの当然の帰結でないようなジェンダーアイデンティティは、その文化のなかでは発達上の失敗として現れるが、「「「それが現れること自体」」」が多様なジェンダーのあり方を切り拓く機会になる。

 

言語の覇権的な構造がそもそも「セックスやジェンダーで『ある』ことの根本的な不可能さ」を隠蔽している

 

→ウィティッグ:レズビアンの主体を、セックスのカテゴリーを超える唯一の概念として置く

文法は、男で「ある」女で「ある」というなかでアイデンティティ概念に従属するものとしてジェンダー概念を置いている

→「女のように感じる」=「ある」(そして、すでに定義されている)ものとしての女が前提とされている

 

フーコー「エルキュリーヌの猫がおらず、猫のニヤニヤ笑いだけが漂う快楽の世界」

ジェンダーアイデンティティと正確にみなしうるためには名詞と形容詞ですべてのジェンダー経験が説明されなければならないが、半陰陽はそれをすり抜け、ジェンダーを架空の実体とする

→実体とは属性を規制する(自由に浮遊しているものに区切りをつけて囲う)ことによっって偶発的に作られるものでしかないので実体の存在論(ジェンダーアイデンティティとみなすこと)は本質的な余剰

 

→しかし「ジェンダー」は実際に区切られているので、自由に浮遊しているわけではなく、ジェンダーの首尾一貫性を求める規制によって生み出されるパフォーマティブなものである

 

6

 

「抑圧の原因や起源と考えられているものが、じつは抑圧者によって押しつけられた単なるしるしにすぎないということがわかってくる」(p60-61)

 

ウィティッグ:言語は「物質性のもうひとつの秩序」

→ウィティッグ「イリガライの姿勢(言語は男性の意味機構だから別の言語や別の意味機構にしか可能性がない)は男女の二分法を再強化し女性性の神話を再流通させる」

 

唯物論セクシュアリティが回復される場所を法の「まえ」や「そと」という無意識の形態におく

ラカン派:セクシュアリティが回復される場所を法の「あと」というポスト性器的なセクシュアリティにおく

(実際「まえ」も「あと」もどちらともとれるようなものに思われる)

 

いずれにせよセックスにまつわる支配権力による禁止を免れるセクシュアリティの必要性に根ざしている

しかし、権力関係のマトリクスの内部で発生するセクシュアリティは法そのものの単なる複製以上のものである

 

たとえば、同性愛の枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは同性愛の異性愛に対する敗北ではなくて、異性愛がコピーされ得ること、つまり社会の構築物であることを示している(それが本質的なものなら異性愛という「失敗」のなかにコピーされるはずがないから)

 

このような撹乱・脱構築を通して、ジェンダーの存在論の覇権を切り崩す=ジェンダー・トラブルを起こし続けることが必要