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G・C・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』1節目

人文・社会学系、特にカルチュラル・スタディーズポストコロニアル理論について学んでいる学生なら一度は聞いたことがあるかもしれないスピヴァクの著作。

 

多くの理論書で引用されていることや、本自体が薄いこともあって、わかりやすい本だという先入見を持っている人もいるかもしれません(私です)が、実際はめちゃくちゃ難しいです。大学院の講義で、その本の1, 2節の部分(サティの寡婦の話は出てきません)のレジュメ担当になって、著作の内容をまとめる機会を得たので、ついでにここで共有するという次第です。

 

 

1.

 

西洋から生じてきているもっともラディカルな批評としてこの本で位置付けられるフーコードゥルーズらの議論は、複数形(-s)で表示された「主体効果subject-effects」の理論であり、これは一見すると主体の主権制を掘り崩そうとするものであるかのような幻想を与えますが、逆に、知の主体を隠蔽するための覆いを提供するものになっていて、西洋という主体を保持してしまっています。

 

※主体効果subject-effectってなんだろう?と思って調べてみると、gobbledygook(それっぽいことば)くらいに捉えられていたので、そこよりも彼らの議論(たとえばフーコーの場合だと、狂気が病のひとつと捉えられていることを、歴史を通して相対化すること)が、彼らがどのような位置に立って発しているかという目線を見落としているために、その位置(知の主体)を隠蔽するものになっているということが重要かなと思います。

 

スピヴァクは、フーコードゥルーズの対談を批判の対象として大きく取り上げますが、ここから西洋の現代思想(ポスト構造主義)内に潜むイデオロギーの痕跡を垣間見ることができるからだと述べます。彼らの主張は簡潔に述べると、

 

①権力/欲望/利害のネットワークが異種混淆的であり、ひとつの首尾一貫した語りには還元できないということ

②知識人は社会における他者が発する言説を明るみに出し、それを知るように努めるべき

 

の2点になります。ところが、イデオロギーの問題や、知的/経済的な生産活動をこれまで西洋が担ってきたという歴史のなかに彼ら思想家自身が巻き込まれていることを無視している、とスピヴァクは指摘しています。

 

この例として挙げられるのが、「毛沢東主義」という固有名の無邪気な流用で、これは「アジア」というものを透明で、具体的な中味を消し去られた存在にしてしまいかねません。「毛沢東主義」はそもそも中国のお話なので、ほかのアジア諸国のことは捨象されていますし、さらに中国内も一枚岩的なものではありません。

 

また、「労働者たちの闘争への言及」のなかで抽象的かつ一般的な言い回しが用いられ、労働の国際的分業やグローバルな資本主義のような「現実のありよう」が取り扱われていないこともスピヴァクは問題視しています。

 

スピヴァクは「異種混淆性と他者についてのわたしたちの最良の預言者であるそれらの知識人において、このような閉塞がゆるされてよいわけがどうしてあろうか」(p.6)と怒りをぶつけています。スピヴァクは「知識人」であることに対して、非常に強い責任感を持っていることがわかります。

 

また、労働者-闘争の結びつきはどんな権力であっても爆破したいという欲望のもとに位置付けられている、とスピヴァクは主張し、欲望についてのドゥルーズ=ガタリの新しい定義づけのもとにこのテーゼを見ていきます。

 

ドゥルーズ=ガタリによると、欲望は、対象を書いているのではなくて固定した主体を欠いていて、この固定した主体は抑圧のもとに生じる、とのことですが、スピヴァク曰く、ここで生じる主体は、それが労働者か経営者かを問わないものの、「法的に正当な手続きにアクセスできるものと想定されている」ものであり、その主体は、他者としての、欲望する主体ではない、ということを指摘しています。

 

※ここはちょっと意味不明なので、欲望とはそもそも何かという観点でラカン精神分析をちょっと追ったのですが、ラカン精神分析においては、欲望desireは、要請demandにおける(生理的)欲求need(ex)「お腹すいた」に対する充足手段(ex)「お菓子ほしい」を超えた愛や承認を求めること(ex)「私を大切にして」というメッセージを指すものだそうです。しかし、ここでは参考にならないですね…。

 

スピヴァクは、このドゥルーズ=ガタリの欲望/権力/主体性の相互関係の考察を失敗と捉え、イデオロギーについての無関心があると述べていますが、それは思想史あるあるの失敗のようでした。たとえばフーコーは、アルチュセールが図式化しようとする制度的異種混淆性を無視してはいませんが、物質的生産の場を「知」(エピステーメー?)に認めようとするのと同じくらいの重さを、その制度的異種混淆性には与えていないのですね。彼ら西洋の思想家は制度(≒ここではイデオロギー)という概念を図式的にすぎないものとして拒絶しており、そこに「無意識」や「文化」という概念を用いてしまっているそうです。スピヴァクは「利害はつねに欲望のあとにやってくる」(p.10)というモデルを彼らはもっていると述べます。差異化をほどこされていない欲望こそが行為の作因者であり、そこに権力が欲望の諸効果を生みだすために滑り込み、結果としてだれと名指されることのない主体(おそらく差異化前の欲望)の誕生があることを指摘しています。

 

欲望→差異化をもたらす、媒介としての権力→行為 という図式であり、

ここでは「欲望する主体」が空白になってしまうのですね。

 

そのため、「行為の作因者の空なる場所を歴史上の理論の太陽たるヨーロッパという主体でもって埋める」(p.11)ということが現に、意識的にかどうかはともかく、行われているということをスピヴァクは主張しています。

 

上述のように、労働の国際的分業のような現状について、フーコーらは見落としをしているからこそ、欲望をドゥルーズ=ガタリの定義(前述した「固定した主体を欠いたもの」)とすると、その主体の空白に、西洋の権力が入り込むからこそ、彼らの議論は現状の追認にしかならない、とスピヴァクは主張しているのではないか、と私は解釈しました。

 

これが実際にドゥルーズのなかで、どのような記述で現れているかというと、「囚人、兵士、生徒たちの政治的アピールの保証人である具体的経験が明るみに出されるのは、あくまでもエピステーメーの診断者たる知識人の具体的経験を通じて」(p.12)という記述や、理論とは道具箱のようなものでシニフィアンとは何も関係ないという旨の記述の形で、であり、

 

前者については、たとえば囚人について語ろうと思っても、実際に囚人が語るわけではなく、囚人の話を聞いた知識人が語るという構図になってしまうことを批判しているのであり、後者については、理論的世界が「実践的」と定義される世界へ接近していく場合には言語の使用が不可欠なことを考えると(すなわち、前者の話を少し抽象化すると)結局ドゥルーズの議論は、ドゥルーズのような立場の思想家にとってのみ役立つような言明にすぎなくなっているのですね。

 

※p.13~p.15は意味不明なので割愛

 

それから、マルクスの議論が出てきます。マルクスは階級についての記述定義は示差的なものだと述べています。つまり「ある階級についての知恵技は他のすべての階級からの切離と差異によってあたえられる」(p.16)というものです。だからこそ、階級的本能というものが存在しているわけではなく、階級の形成は人為的かつ経済的なもの(社会学風にいうと、「社会的に構築されたもの」)と考えることができます。とすると、マルクスは、「(アプリオリに存在するとみなされている)欲望と利害が一致するようなひとつの未分割の主体をつくり出そうとしているのではない」(p.16-17)ということがわかり、この時点で、最初に述べたフーコードゥルーズの欲望/利害のネットワークという考え方が、マルクスの思想とは袂を分かっているものだということが見えてきます。

 

この(マルクスが主張する)欲望と利害の不一致の例としては、欲望(階級的意識)と(階級的)利害が一致しない分割地農民の例を引くことができます。分割地農民は、自らを代表することができないため、かれらの権利を守るための執行権力がかれらの代表者とならざるを得ません。ここは誤読があるかもしれませんが、階級的意識のもとで「こうありたい」と欲望する分割地農民の、利害を一手に引き受ける執行権力は、本来的に執行権力それ自体の欲望・利害にもとづいて動くものであるために、分割地農民を執行権力が代表することによって、利害を追い求める際のズレが生じてきます。これをもって、欲望/利害のネットワークという考え方に無理が生じてくるのではないか、とスピヴァクは指摘しているのではないかと私は解釈しています。

 

※p.19~p.25はほぼ意味不明なので割愛

 

※理解では十全ではないし、ここは本筋と逸れた議論になっている気もしますが、p.20〜22までを強いてまとめるとすると、マルクスは階級的立場→階級的意識→階級的行為という図式を持っていて、この階級的意識は、全国的的結合や政治的組織に属する共同感情を意味していて、家族をモデルとするような他の共同感情を捨象しています。マルクスにとって、家族は「社会との交通」(※交易を指す)と対比して考えられるものであり、このような、家族の階級的形成体からの排除には男性中心主義が見受けられます。スピヴァクは十全な階級的行為があるとすれば、それは「『かれらの生活様式を切り離す経済的生存状態』をはじめとした『人為的な』なにものかを領有(代補)することであるとともに、ひとつの異議申し立て的な置き換えを行うこと」(p.21)と述べています。しかし、たとえば前述した、マルクスが軽視していた家族、その役割も異種混淆的になっており、「たんに家族の位置の置き換えを行うだけでは、枠組み自体を破ることにはならない」(p.22)ということをスピヴァクは指摘しています。

 

さて、改めてフーコードゥルーズの対談で述べられていた主張において問題含みなものを挙げるとすると、A.「理論とは実践の中継者である(こうして理論的実践にまつわる諸問題が葬り去られる)」B.「被抑圧者は自分で知り語ることができる」というものも出てくるのですが、これは初めに述べた①②をより具体的(とはいっても抽象度は高いですよね…)にした?ものです。

 

このABは構成的な2つの主体を再導入するという点で問題を抱えています。

それぞれ、

α:方法論的前提としての欲望と権力という(大文字の)主体

β:被抑圧者という自己同一的ではないにしても自己近似的な(小文字の)主体

ですが、この2つの主体の再導入のなかで、いずれの意味でも主体となりえない知識人たちは透明な存在と化してしまいます。

 

スピヴァクはここで再導入された主体について批判を行なっています。「(知識人の)透明性のなかにいっしょに縫いこまれてしまっている(2つの)主体は、労働の国際的分業の搾取者の側に属している」(p.28)「フランスの知識人たちはみずから危険を承知の上なのであろうか、この重層決定された企ての全体が、利害、動機(欲望)、そして(知の)権力が無情にも脱臼を起こすことをもとめるような、あるひとつの動態的な経済的状況の利害関心下にあって遂行されたものであったということを忘れている」(p.29)という形です。

 

※「方法論的前提としての欲望と権力という主体」は、「議論を展開させるに際しての主体」という意味でしょう。「自己同一的では…」についてはわかりません。

 

※搾取者の側に属している、というのは言い過ぎな感覚もありますが、繰り返し述べているように、西洋的なエピステーメーに則っているというニュアンスでしょう。

 

さて、そのなかでスピヴァクが、知識人にとっての政治的実践のひとつのありうる方策として提示しているものは、経済的なものを「抹消のもとに」置いてみること、です。この著作が難解だったので、この本の解説もいろいろdigったのですが、スピヴァクが「位置取り」として特に主張したい部分のようです(本当にそうかどうか、については議論の余地があると思います)。ただ、経済的なものを「抹消のもとに」奥ことによって、経済的要因というものが、どんなに還元不可能なものであって、そして、それが抹消されるときにも、社会的テクストを(経済的なものが抹消されることによって?)書き込み直すことになるのを私たちがみることができる、とスピヴァクは主張して、この1節が終わります。

 

 

 

2節目もこの記事で書こうと思ったのですが、

あまりにも長くなりすぎることと疲れたこととで、

今日の記事はこれまでにしておきます。

2節目についてはまた後日に記事にするつもりです。

 

記事を書いたにも関わらず、解説できない部分があって申し訳ないのですが、

自身の思考の整理と、院生がどのように本を読んでいるのか、という部分を共有することそれ自体にも意義があるのかな、と思います。

 

参考文献

Spivak, Gayatri  C., 1988,  "Can the Subaltern Speak?", Cary Nelson and Lawrenve Grosberg eds., Marxism and the interpretation of Culture, Urbana: University of Illinois Press: 271-313. (=1998, 上村忠男訳『サバルタンは語ることができるか』みすず書房.)

 

https://www.amazon.co.jp/サバルタンは語ることができるか-みすずライブラリー-G-C-スピヴァク/dp/4622050315